政府のコロナ対応はなぜ不評だったのか? 旧態依然の政治手法に見えた限界

文 岩城由彦

読売新聞58%、共同通信57%、毎日新聞53%。これらの数字は、新型コロナウイルスへの政府対応を『評価しない』と答えた人の割合だ。欧米などと比べて感染者数、死亡者数は圧倒的に少ないにも関わらず、なぜ政府の動きは不評だったのだろうか? コロナ対応で見えてきた、政治の問題点と打開策について考察する。

「スピード感と情報開示」が欠如

一連のコロナ対応を振り返る前に、まずは理解しておきたいことがある。それは「政治は何のためにあるのか」という根本的な問いに対する答えだ。

平たく言えば、政治は国民の暮らしを守るためにあるが、ひと口に「政治」と言っても、その守備範囲は広い。所管する分野が異なる数々の省庁が存在するように、期待される役割もさまざまだろう。しかし、どの政策にも共通するのは「スピード感と情報開示」が重要であるという点だ。どんなに優れた政策も時機を逃せば効果は薄れ、「なぜ血税を費やさなければならないのか」という説明責任を果たさなければ国民の不信感は増すことになる。

これらの原則を今回のコロナ対応に当てはめてみると、やはり「スピード感と情報開示」が足りなかったと言える。国民1人当たり10万円の特別定額給付は二転三転の末に決定し、議論の過程すら国民にはよく見えなかった。さらに、10万円の給付自体も思うように進まず、4月24日の補正予算閣議決定から2カ月を過ぎても全世帯に届いていない有様だ。

コロナ感染の有無を調べるPCR検査の件数も、政府が約束した「1日2万件」とは程遠く、国内外で「本当の感染者数を隠しているのでは」との疑念を招いた。テナント事業者への家賃支援給付金を盛り込んだ2次補正予算の編成なども、欧米などと比べると後手に回った感が拭えない。

与党の法案事前審査が足かせに

それではなぜ、政府のコロナ対応は「スピード感と情報開示」に欠けたのだろうか。主な要因の1つには、与党による内閣提出法案の事前審査が考えられる。政府の予算案や法案は自民党政務調査会の関係部会の両省と党総務会の全会一致の合意を得なければ、そもそも国会に提出すらできないという長年の慣行だ。

もちろん、これには理屈がある。政府が国会に法案などを提出しても、与党議員の多くが賛成しなければ成立しない。このため、原案の段階で与党内の意見を擦り合わせる代わりに、採決では反対を許さないという仕組みを取っているというわけだ。

ただし、複雑な調整を要する事前審査は時間が掛かり、内閣や首相の権限を弱めやすい側面もある。与党内という「閉鎖空間」での調整過程も、国民には見えにくい。コロナ対応のように迅速かつ省庁横断的な対応が求められる非常時は、こうした弊害の方が大きくなる可能性が高い。

民意が味方した地方自治体の機動力

では、これらの問題は単に事前審査を廃止すれば解決するのだろうか? 残念ながら、答えはノーだ。あらゆる政策はスピード感や情報開示だけではなく、民意の反映も重視した上で決定されなければならない。

コロナ対応において、多くの民意の支持を集めたと言えるのは、地方自治体のリーダーの機動力だった。北海道の鈴木直道知事は2月28日、国に先駆けて独自の緊急事態宣言を発出し、感染拡大の第1波を抑えることで住民の不安も鎮めた。また、大阪府の吉村洋文知事も休業などを要請する際の独自基準「大阪モデル」で感染状況を「見える化」した。

海外を見ても、連邦制国家のドイツではロックダウン(都市封鎖)に合わせて地方政府が独自の経済支援策を次々に打ち出し、中央政府はスピーディーに追認する形を取った。米国ニューヨーク州のクオモ知事は3月1日から6月19日まで111日間連続で定例記者会見を開き、科学的データに基づく政策決定の根拠を説いて住民の支持を集めた。

これらに対し、日本政府のコロナ対応は、およそ民主的とは言えない判断が目立ったと言える。

総額260億円を投じた全世帯へのアベノマスク配布は、多くの国民の「不要論」を押し切って強行された挙げ句、不良品の続出で延期される始末。さらに、政権が「緊急事態宣言に備えて不可欠」とこだわった新型インフルエンザ等対策特別措置法改正の必要性も、十分な説明が尽くされたとは言い難い。全国一斉の臨時休校措置も、明確な法的根拠が示されないまま実施に至った。

硬直化した従来の政治手法は危機に対応できない

スピード感と情報開示、そして民意を併せ持つ政策展開は、どうすれば実現できるのだろうか? もちろん、1人でも多くの有権者が選挙で1票を投じることは大切だ。また、若者らの政治参加を促すため、国会議員に立候補する場合は300万円(比例代表は600万円)という世界一高額な供託金制度の見直しも必要だろう。

ちなみに、供託金とは選挙に出る際の参加料のようなもの。G7の先進国で日本以外に供託金制度があるのはイギリスとカナダだけだが、その額は両国とも約10万円でしかない。

しかし、もはや単なる政治参加だけでは、根本的な解決にならないと思える。例えば、コロナは「国難」に等しい災禍である半面、感染状況や医療体制などは地域ごとに全く異なる。かつてない難しい対応が迫られる中、硬直化した従来の政治手法だけで国民のニーズにきめ細かく応えようとしても無理が生じるはずだ。

「道州制」導入など中央集権を見直す機会にも

ドイツのように強固な地方分権の確立を目指す上では、日本でも都道府県に代わり、より広域的な単位の地方自治体を新たに設置して権限を委譲する「道州制」の導入を検討するべきという主張がある。

いずれにせよ、もはやコロナ対応を国に任せ切りにできないことは明らかだ。今こそ、財源のバックアップを含めて地方自治体の力を最大限引き出す仕組みづくりが必要だろう。もちろん、これまでの中央集権体制を改めれば、国の負担は軽くなるはずだ。

そうなれば、年間約2200万円に上る国会議員の歳費の削減も議論されて当然。与野党を問わず、今回のコロナ禍から国民生活を守ろうと真剣に取り組んだ国会議員は何人いただろうか? 歳費を半減すれば、国会議員の定数を半減したのと同じ効果も期待できる。

「政治屋は次の選挙を考え、政治家は次の時代を考える」とは、米国の牧師・作家、ジェームズ・フリーマン・クラークのものとされる言葉。東京などでは感染の第2波の兆候も見えているというのに、国会では権力闘争を目的とした衆議院の解散風が吹き始めている。

「若者が政治に無関心になった」と指摘されて久しい。しかし、政治離れによるメリットは何もなかったことは歴史が物語っている。それでもまだ、未来を担うミレニアル世代の皆さんは「政治に期待しても仕方がない」と考えるだろうか? 諦めてしまうのは、まだ早い。